2014年5月23日金曜日

my 応援歌☆その② scecretbase





ZONE

secretbase~君がくれたもの~




私の個人的な、応援歌を紹介するシリーズ、第二回目。

今回は、私が高校生時代に流行った曲、secretbase~君がくれたもの~です。



10年後の8月。
この曲を初めて聴いたときから

もう、10年後になっている。
私はいつのまにか、
高校も卒業して、10年以上たった。

生徒から教える立場にもなった。
あの、痛くて、ヒリヒリしていた時はすぎて、
年々、生きやすくなっている。
だから、つい、おせっかいで、言いたくなる。
若くて、10代・20代前半で苦しんでいる人に。


大丈夫だから、
わかるようになってくるから。
世界はそんなにツライものでもないから。
あなたが、また大きな仕事をする分野があるから。と。
親や教師が言わないことで
知らないことで、まだまだ余地も自由もたくさんあるのだから。
世界は広いのだから。
と。



最近のアニメで、リバイバル☆バージョン☆














この曲を聴くと
「思い出」「記憶」「過去」

そして、同時にそこから展開される時間軸。というものに
想いをはせます。




「今が変われば、過去も未来も、意味は変わる。

時間軸が変わる。

今の自分が変わるというのは、

そういう意味がある」

人生を変容させるストックワードと、言霊の塊。
占星術の講座で、マーリちゃんが言っていたことを思い出す。



その言葉を聞くと、
私は、自分でもよく書いていた、時間軸の一直線の図を思い出す。

過去から現在へ。現在から未来へ。

その現在で、すべては反転する、
いつだって、「今」にすべてが含まれている。
残酷さも、光も、闇も、そのなかで、どれを選ぶか。は少しずつでも
0.001ミリでも選んでいけば、そちらに行く意志は、介在させられる。
人間は、確かにちいさい、だけれど、無力でもない。
そう思ったら、未来は、そちらに動く。








「この悲惨な出来事を肯定することはできないけれども、
あの出来事があったからこんなふうになれたのだ、
と思うことはできる。
それが僕らが目指すべき未来なのだ」

起きた出来事は変えられないが、出来事の意味は事後的に決まる・・・

意志が未来を切り拓き、未来が過去を意味づける。

「人を助けるすんごい仕組み」 より 西條剛央 (p. 37-38)

3.11の復興支援を書いた本の中で
この言葉が、印象的だった。これは今でもまっただ中の、
マイテーマだ。




そう。

たとえば私の場合なら。



高校時代の友達は、いない。

初めての彼氏と、ただSEXしただけで
なぜ、親にHIV検査に行かされた過去。

新卒で入った会社、1週間目で、
セクハラ行為を訴えて居づらくなった。

男が次々と変わる。

とにかく、安定しない情緒。仕事。プライベート。恋愛・・・

過保護の親。刺さるような言葉。痛い記憶しか残らない。

20代はうつ病にとられて。




そういう過去の意味を、すべて反転させるのは、変えていくのは

まさに今なのだ。






そして、そんな辛かった思い出のなかにも
楽しかった思い出や学んだこともたくさん詰まっている。

だから、今、この感情にすべてをとられて
そのせっかくの、思い出を汚したくもない。

どんな時だって、きらめくことはあったのだから。



ねえ。

最後に「ありがとう」で終わらせたい。
何事も。








職場でも、たくさんの感情の嵐を見た。
あまりにもたくさんの人がいて
その中で、治めて行かなければならないものが多すぎて
それらに翻弄されて濁流にのまれていくような
同僚を見てきた。



同世代だけに、無気力を感じた。
なぜ、そんなものに、飲みこまれてしまったのか、と。
負けたのか。と。・・・・負けちゃだめだよ。


そう、感じるだけだ。
何もできない。


まだ、公務員の学校現場は、最後の砦だ。

この世の資本主義と、アメリカのような、
雪崩を打った弱肉強食の競争が、襲ってくるだろう。
まだ急場はしのげるけれど、それほど、もう時間もなく。
その絵は浮かぶ。そのときに私に関わった人が
どうか守られますように。と祈らざるを得ない。


真っ暗な未来でもない。





少し前、明け方に、
夢を見た。悪夢だった。

私は、全寮制の学校に、生徒と教師の中間としているのだが、
そこの生徒が、次々と、 顔と首をちょんぱされて事故死していくのだ。
なぜか、今インターネット業界で、通販業界トップの会社社長が、その学校を経営していて
記者会見を開く。「われわれに責任はない。大丈夫だ。」

あくまで、夢だ。
だが、その体の感触の悪さは残った。



自分自身の体調の悪さや、その日に会っていた人の思いも入っただろう。
という生き方の極致を描いた
マンガを読んだせいもあっただろう。
(彼女の妄想や、幻覚をひたすら描く筆はすごいと思った。
うつ病の渦中なんて、あんな感じだから。)




それでも、それはひとつの側面から見たら、
象徴性としては、比喩としては、
事実だと感じた。



この国の学校教育では
人の顔がつぶされている。
首を、しゃべらないように切られている力がある。
それに気づかない人もいる。
無縁の人もいる。
だけれど、一定数で、確かに、何かが押しつぶされている。
暴力的に。
あまりに、その部分に無神経だったからこそ
おざなりにされている部分がある。


誰か、個人が悪いのではない。
悪者に仕立てあげればいいのでもない。

ただ、わたしたち
ひとりひとりが、
動いていくこと。引き取って生きていくこと。



まだうまく、言葉にできない。表現しきれていない。



たしかに、私が言おうとしていることは、
違う側面から見たら、
妄想的なのかもしれない。


だけど、バリバリと感じている危機感でもある。




あらゆる場所に起きている
さまざまな
出来事に。


鎮魂の祈りを込めて。


May Jのカバーバージョン。これも、素敵ですよ♪

















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