2014年3月31日月曜日

8年ぶりぐらいに、東京に行って考えたこと。


コーチングの基礎講座に行ってきました。 
https://www.youtube.com/watch?v=W6QjKT1A2pI 


もちろん学んだことは多かった。

が。
それより、困った、とまどったのは、


自分が、 
東京滞在3日間で、右肩下がりに
吸い取られるように、
どんどん疲れていったこと。


もちろん、
できないこと 
失敗、 
わかんないこと。 
たくさんあったから、それかな? 


外資系の団体、というか 
負荷を課しながら 
やっていくからその 
ストレスかな? 


お金が足りない状態で行ったからかな? 





などなど、 

と思ってたんだけれど 
もちろん、それもすべて、ある。 (笑)



が、 

どうやら、それだけじゃない。 



冷静に今日、さっき名古屋に帰ってきて 
風呂に入って振り返ったら、 




☆人が多すぎたこと 

☆よって、ホッとできる場所が少ないこと 

☆山手線が、朝から人身事故(=ホームからの、飛び込み)で止まったこと。 
 4日間の滞在中、2日間も、これで遅刻を心配したこと。 




この3点の大ショックだな、と。 



☆人が多すぎる。 

これは、道行く人の人間観察も習慣になってる私にとっては 
情報量が多すぎてパンクしそうになった。 
もう感覚を完全に閉じて歩くしかない。 

歩くスピードも速いし、 
イライラしてる人が多い。 
駅の乗り換えで、すぐ背後で、 
「ちっ」という舌打ちの音を何度も聴いて 
本当に怖かった。 

電車の中では、 
みんな一斉にスマホをいじっていて、 
なんだか私まで一気にi-phone中毒がうつってしまったような気分に。 
つまり、「私もスマホをいじらなければ」という気分になってしまうのだ。
アホっぽいけれど、
そういう気分が感染していった。


☆ホッとできる場所が少ない。 

研修場所が、青山近くだったので 
新宿、渋谷といった、大きな駅を乗り換えを 
使ったが、慣れてないので
これがまた大変だった。 



空を見上げても、どんより灰色で曇ってる。 
緑の場所が少ない。 
明治神宮に、朝に参拝しても 
みるみる消耗していく。 

山手線も、車内での広告が 
映像が流れていて、それが飛び込んできて、疲れる。 


数年前、大学に入りなおしたとき、 
東京の私大の大学も検討したが、
 
「人が多すぎる、情報量が多すぎる」と避けて 
懸命だった。 


なにしろ、私は、
現時点でもこれほど疲れるのだから。 




☆山手線が、人身事故で止まりまくる。 


これが一番ショックだった。 
そして、自分が思った以上にショックをうけている自分が、
ショックだった。 



あまりに重い題材だから考えないようにしてきたことだが、
やはり自殺したいという人が東京は多すぎるのではないか?ということ。 
そして、この日本の自殺の問題は、
なんとかしたいのだ。とわかった。

自殺のことを考え出すと
私自身が、底なし沼に引きずられる気分になるので
関わってこなかったが
いくらなんでも、もう目をつぶれない。



ホームから飛び降りた、飛び降りたという場所の上を 
また人が通過して、電車が通過していく。 


そりゃ、どんな場所だって
死んだ人は、何万年単位で考えたらいるだろう。

それでも、名古屋で同じ状況が起きるのとは
比べ物にならないほど
私は全身に緊張と恐怖が走った。

ゲームやマンガや小説の中ではない 
自分が生きている国の首都で
これほど、高いビルに囲まれ、
オシャレな服を着て、
平和な物のあふれている日本で、

起きているのだという現実は 
あまりに重かった。 



私自身が、20代を、うつ病なり、精神の病で 
かなり時間を食われたというのは悔しいという思いもある。 

そして同時に、 
自分自身が、地下鉄や列車に飛び込んでしまえば楽だという 
ビジョンが常に浮かんできたことがある。 



この三点目のことは、 
今後の私が生きていく時に 
何かしら、かかわらざるを得ない問題だ、と感じた。 

日本の自殺率の高さ。 
この日本の閉塞感を打ち破りたい。 



だけれど、その前に自分の心身がくたばってしまったら 
何もできない。 


改めて、今私は名古屋にいるのが 
必要なんだな、と思った、 

東京には住めない。 
もちろん、行く場所のひとつの地方都市ではあるが 
あまりにも、私にとっては 
ある種の、呪い(と言ってもいいぐらいだった) 
が強すぎて、しんどすぎる。 





もちろん、東京で研修を受けて、 
今までだったら絶対に会わなかったであろう人に出会い、 
自分自身のスキルも、生き方も見直すこともできた。 

同志のような、 
分野も職種も違えど、 
目指している方向性が同じ人にも、同世代にも会えた。 

また人生なり、自分の生き方を 
もう一度俯瞰して 
見直すことができた。 


東京は、日本全国から人が集まってるから 
あまり介入せずに、放っておいてくれる。 

地方都市だったら、こりゃー個性が強すぎて 
濃すぎて、浮くだろう、 
村八分だろう、 

というような人も 

気楽に存在できる。 

そんな、しがらみや、他人の目や 
ご近所の目、というような 
狭い価値観内での縛りあいから 
自由な場所だ、と感じた。 



それでも、あの東京は 
私は、 
今、ツライものがある。 


自然が、切り離され過ぎている・・・・





ああ、あんな場所で 
近い将来、オリンピックをするなんて。。。。 

と、私は個人的に、思わずにはいられなかった。 


こういう 
大きな腐臭というか 
呪いがかかった 
今の日本で 



私は、何ができるだろうか? 

どうやって生きるのだろうか? 




特に大きなことをするでもない。 
ただ目の前から、 
部屋の片づけから、 
なんだけれど。 (笑)


その課題を
改めて、感じずにはいられなかった。 


私だって、ホームを踏み外して
「むこうがわ」に行っていたかもしれない人間なのだから。









さあ、明日から新しい職場です☆



2014年3月25日火曜日

春の散歩の考え事 walking around and thinking aloud


深夜高速 フラワーカンパニーズ

年をとったらとるだけ、ふえていくものはなに?
年をとったらとるだけ 透き通る場所はどこ?







気温が上がって、外に出ると香りが変わった。

夜に散歩すると、空気の匂いが立つ。
ああ、この家には菜の花があったのだ。
この玄関には、ヒヤシンスが植えてあったのだ。と。

もう桜の開花宣言があった。
桜といえば、近所の学校の運動場に、昨年母と入り込んで見た
桜を思い出す。

厳密に言えば、そのときに浮かんだ気持ちを思い出す。
「桜を見ている気持のように、ずっと生きていくことはできるはずだ」と。

目の前のことから逃避するのでもなく
ただ満開の桜を見つめるように
仕事をしていても、どんな人生現場でも
この無心の気持ちで
過ごすことは選べるはずだ。
自分がそれを望むなら。

今になると、そう願っていたし
そうやって実行してきた。

一年たって、すこしずつそこに
にじりよっている。


春は、メンタルの病を抱えたもの、その後遺症が残る人にはつらい季節だ。
体調が崩れやすく、それは気持ちを不安定にする。
ただでさえ、変化の多い時期なのに。

昨年、街路樹のハクモクレンが満開になったのを見て
湧きあがったのは
「ああ今年もちゃんと、これが見られた、生きてた」だった。

そこまでせっぱつまった気持ちを今年は持つことは無くなった。
そういうことを振り返ることができる
一年一年の季節の節目って、大事ね。


散歩しながら考えたこと。



☆年をとれば、とるほど、本来自分が持っている癖が大きくなっていく。
 どうすれば、それをニュートラルにできるだろうか?


☆年をとると、失うセンス。アンテナがある。
放っておけば、洋服にもメイクにも、身の回りのものへの
アンテナがどんどん鈍くなっていく。

どうすれば、その敏感さを、錆びつかせず、
ブラッシュアップできるだろうか?
キープできるだろうか?



以上2点、年をとるという恐怖感につながること。



そして、




☆自分の記憶、つまり過去を整理していくこと。
掘り出して、発掘し、そして並び替えること。
それらに新しい意味と解釈を見出すこと。

それは常に今、この瞬間に起こりうること。
あるいは、未来に変わりうること。

それが、未来につながていくこと。

時間は有機的だ。

時系列に、過去・今・未来と一直線上で考えることが多いが、

実際は、時間は、
生き物のように、のびちぢみする。
ドラえもんのタイムマシンのように、
あちこちに穴が開いていて、突然ランダムにつながる。








浜崎あゆみの曲 Dutyにもあったにゃあ。



誰もが探して 欲しがっているもの
「それ」はいつかの 未来にあると
僕も皆も 思い込んでいるよね

なのにねまさか過去にあるだなんて
一体どれほどのひと気づけるだろう
予想もつかない












☆ビートルズの曲 Help! の歌詞







他人に助けを求めるというのは
大人だからこそできる行為なのではないか?

と。


とある店に入ったら、
この曲がBGMで流れてきた(ボーカルの入ってないもの)ので
歌詞を口ずさんでいたら、(意外と覚えてて驚いた。一年以上歌ってないはずなのに)
これは
なかなか、30になったからわかる歌詞だなあと気づいた。




Help, I need somebody 

助けて、誰かが必要なんだ

Help, not just anybody

お願いなんだ、でも誰でもいいんじゃない

Help, you know I need someone, help

たすけてくれ、ねえ、誰かが必要なんだ。どうか

When I was younger (So much younger than) so much younger than today

僕が 今よりずっともっと、若かった時

(I never needed) I never needed anybody's help in any way

どれも、なんでも、全然、他人の助けんなんて必要じゃなかった

(Now) But now these days are gone (These days are gone), I'm not so self assured

でも、今では、そんな日は過ぎちゃって そんな自信もないや



(I know I've found) Now I find I've changed my mind and opened up the doors

もう、僕は 気持ちが変わったようだ、このシャッターを開けたんだ

Help me if you can, I'm feeling down

できれば、僕をたすけてくれ、凹んでるんだ

And I do appreciate you being 'round

そして、君がまわりにいるいことに、本当に感謝してるんだ

Help me get my feet back on the ground

僕をたすけて そして、この地に僕の足を戻してくれ

Won't you please, please help me

お願いだ、どうかどうか、たすけてくれ


(※訳・意訳は、すべて私です)




若かったころは、別に助けなんて要らなかったよ。
でも、今は
自分が大地に足をつけて、ちゃんと立つためには
他人が必要なんだ。



・・・・って、グラウンディングでは?

(スピリチュアル用語で、

大地・地面に立つ = 現実の生活に根差す =お金をかせぐ、目の前の仕事をやっていく、など)


「誰か」の助けは、
あなた、でもあり、
そして自分自身、でもあるか。

恋人に対してのようでもあり、
あるいは別に仕事仲間のようでもあり
家族に対して、妻や夫に対してでも言えるだろう。

 
「ひとりでは、生きられないのも芸のうち」

といみじくも看破した内田樹せんせいを、思い出したのでした。






I just love to walk around and think aloud.







2014年3月24日月曜日

浮かび上がる記憶と未来

木村カエラ バタフライ



年度末。
ぽっかり時間が空いたときに、ぽろぽろと考えることがある。


これほど、自分が狭い世界や小さなことに執着していたのか、
と気づく。



と、同時に、思い出したくない時期を
かなり放り投げたり、隠したり、鍵をかけてきたりした。


完璧主義で、潔癖のように、
人間関係で、一言やちょっとした言動で
瞬時に切り捨ててきたし。


大学時代は、あまりに落ち着かなくて、
たくさんのサークルや団体に
入っては、すぐに辞めることも繰り返してきた。


そんな場所が、あちこちにありすぎて、
そこを、もう今になって
のぞきかえしてみたら、意外と大丈夫と気づいたりする。


しみじみ、私は、「何かが終わる」という予感も、好きなんだなあ~とも気づく。
別れの甘美さから、そこからまた分かるという一連。








他人の感情と、自分の感情も混同しやすい。

誰かの悩み。恐れ、焦り、怒り、不安。
それらを、私がすべて受け止め、中和し、耐えなければならない

と強迫観念のように、思い込んできた。
とういことにも、気づいていなかった・・・




そして。

結局、私が放り投げた・・・(と、当時は思っていた)
勝手に当事者でやってくれ。と


怒っていたつもりだったけれど、

そうやって時間が経ってみると、

そして、なるようになるし、世界は回るということだ。

私が、勝手におせっかいを焼いて
そして、また怒っていただけだ。
一人相撲のようなもの。



そして、相手に怒っていたり、
イラついていたというのは、

結局、子供な自分に、力不足の自分に、
その状況に対して、対処がわからない自分に
怒っていたということ。

あるいは、先が見えないから不安になって怖くて
それが、怒りに転化しているということ。

そして、それについつい執着してしまうこと。

ひとつの感情が浮かび上がったら
それに居座ってしまう癖がついている・・

それが楽だからだ。

そして、周囲の多くの大人たちが、
そうしてきたから。そうしているから。

そこから、スポっと抜けて行こうと思う。


空を見上げて。
雲を見て。






結局、自分が、まず上がること。

それだけに集中しよう、と。







以前、前世をtomoeさんに見てもらった時に

まず、私の体の状態を見ながら・・・言われた言葉が忘れられない。




「全体的に、左にずれてるね。

(私は、赤ん坊のころから、左側を下にして、寝る癖がある。

もちろん、私の顔立ちも左右対称ではない。)

左に向かってね・・・・、20センチぐらいずれてる。

(何が?と問われれば、それは、重心、ともいえるし、

あるいは、自分が地に足を付けている

その基軸ともいえるし・・・)




でもね、アタマがぱかーって開いてるの。

蓋が開いてるみたいにね。

だから、憑依されやすい。乗っ取られやすい状態。

なので、まず

足から戻そう。

足を、左から戻して。

そこから、天(アタマ)を戻そう。

じゃあ、なっちゃんに、左足につける

アンクレットを作ってもらおう。」


乗っ取られやすい。
憑依されやすい。


その言葉は、恐怖とともに、

激しく胸に響いた。

おびえる私に、彼女は大丈夫だよ、と

伝える代わりに言った。



「でもね、

天とは、上に、きれ~~~いにつながってるからね。」





このエピソード、
あまりに怖かったので、前回のブログにも書けなかった。

たしかに・・・・

私の人生なんて、ほとんど、




他人の意向、エゴ、幼くて未熟な、

激しく感情をぶつけてくる、勝手な大人の都合に、

「乗っ取られ続けてきた」ようなものじゃないか。


でも、成長してからも、

それを許してきたのは、その侵入を認めて、

門をあけっぱなしにしていたのは、

同時に私だ。


もう、私は

自分で稼げなくて、行動を制限されていた

幼い子供でもないのだ。



そして、私だって、時には、

エゴ、激しい感情、勝手な都合をふりまわす

大人になった。




つまり、完璧な人間はどこにもいないし

完璧な人間になる必要もないってこと☆










相手の身体レベルに根差した、自信満々の態度によって、

私の言葉は

簡単に相手に左右される、と気づいていた。

それは年齢も、性別も関係ない。


その場の無意識レベルの制空権を握られたら、

一瞬で吸い込まれるようにそこに自分から入ってしまう。


「催眠術にかかりやすい」

「変性意識に入りやすい」

(変性意識;極度に集中しているときに、時間が短く感じるような意識のありかた)


といえる。

これは、ひっくり返せば、

有能な催眠術師なり、カウンセラーなりに
訓練を積めばなれるということ、らしい。

と、それなりに文献を読んでわかってきた。



ああ、めんどくさい。


それが、正直な感想だ。


また、「私がなりたい自分」の方向に行くには

とんでもない階段の段数を

上っていかなければならないのか。


と、階段の行きつくはるか先を見上げると

気が遠くなるけれど

まずは、目の前の一段を

踏むことだけに集中しよう。

それでいいのだ、ともわかってきた。



****************









この立場になってわかってきたけれど

私は「恐れられていた子供」だったのだ。

子供らしくなく、無表情。落ち着いている。

何を考えているのかわからない。

まだ、考えている内容に

言葉も、表現する方法も

合致していなかったから

内側でじっとしているしかなかった。

大人を冷静にじっと見返すと、

目の前の年上の人は、まるで自分が査定されているようにも、感じただろう。

時には。





************




この頃、BONES(ボーンズ)というアメリカの連続ドラマを見ている。



このドラマで、主人公、エミリー・デシャネル演じる、

法人類学者、テンペラス・ブレナンが、非常によくわかった。


彼女は、圧倒的な経験で、遺体や、骨をみて、

瞬時にその人の、性別・趣味・年齢・人種などを言い当てる。

シャーロックホームズのように、さくさくと、推理していく様子、

さっと「分かる」様子、専門語の羅列で会話が進む。

感情を切り離して、できるだけ理性と科学で物事を解決していく。


主人公の、感情の切り離し方と、真実への追及の異常な情熱が

あ、似てる。と思った。

別に私はFBIに協力しているわけでもないけれど(笑)


他の人が目をそむけるような、

腐乱した遺体をも、綿密に調べていく作業を

淡々と行って、内面をえぐり、他人とこの世界を

掘っていくのは似てるなあ、と。

主人公は、相棒(体育会系FBI捜査官)から、その


特異な頭の良さと、結果を出す信頼から、

「BONES(骨たち)」と呼ばれてる。


ふと、おもった。




私も、別の名前が必要な時期なのかもしれないなあ・・・・と。























2014年3月22日土曜日

小悪魔性 と 花魁性 

椎名林檎 本能







小悪魔性と、花魁性が怖い。

自分の内側の。

と、常々思って来た。




それが、怒りや恐れ、

根付くと、欲と結びついて、暴走する。


あるいは、ものすごい自分がハイ、躁状態になった時も

同じ現象が起きる。


短期間で、浅いつきあいのまま、

バンバンと相手が変わる。





なんとなく、私は人の気持ちに敏感なところがある。

この人は、好意を私に持っているか。

誰と誰が、どういう目くばせをしているのか。

まだまだ主観も自分の偏見もバイアスも、入る。

経験値も現場経験もそれほどないから

勘違いもわからないことも多い。



だけれど、


腹を割って話してくれる、

親しい女友達への恋愛アドバイスは、まあまあ有効みたいだ。



だが、自分自身には?どうなの?

と考えると。


多くの女友達や、

年下の女性に、何か私が掴んだものを還元していくことで

自分自身が経験を糧として、昇華していく。


自分自身の小悪魔性、花魁性という部分で、

自分でもわからない、

底なし沼みたいな、業とエネルギーを

かかえてるなあ、とは分かっていた。


そして、現代日本社会で

私が生きている場所では

それは丁寧にかくして密閉しておいたフリをしたほうがいいなあ、とも。

なにかと誤解を受けて、

そして、後ろ指をさされ、

魔女裁判に吊り上げられて・・・


そんなイメージが浮かんで、止まらない。


「将来、私が週刊誌に書かれるような立場になったら

ホコリだらけかもね~ ま、叩けばホコリはあるさあ」

・・・と、大阪府の橋本知事が女性問題で報道されてた時

淡々と思ったのも覚えている。



いい年をして、高校生のようにバンバンとつきあって。

別れて。



さすがに、悩んだ。考えた。




☆深く、一人の人と人間関係を結ぶのが怖いのだろうか?

☆恋愛初期衝動中毒なのだろうか?


☆私が未熟で、まだまだ課題がたくさんあるあるからこそ

こんな、振る舞いになってしまうのだろうか?


☆昔の恋愛の傷が、最初の彼氏との関係で、

両親から暴力的に自分の女性性を否定され、圧迫されたことが

生命レベルの危機で抑圧されたことが、

まだ、無意識レベルで尾を引いているのだろうか?

自分自身を罪悪感の檻に閉じ込めているのだろうか?






おそらく、どれもYESだ。

だが、同時にそれだけでは解決しない、とも思っていた。



そして、新しい年度が始まろうとしているとき

ふと、気づいた。




私は、異性・同性、

一番最初の初対面の時が好きだ。


日本で言うなら、出会いが多い、4月~5月が一番好きだ。




付き合いが浅いときに、一気に仲良くなっていく時


わからないもの、未知への好奇心。

それは、長いトンネルを抜けた後で

サッと開ける高い頂きに出た

一面見渡せる場所に出たときの

あの解放感。それが、好きなのだ。

つまり、旅人のように

次々に場所と景色が変わっていくこと。

自分自身が身を動かしていくこと。

ただ、それが好きで、そうしていないと、ツライだけなのだ。






そうか、私は根っからの「旅人」なんだ。



(なので、このブログのデザインも飛行機の窓からの雲の上に変えた)




おそらく、自分自身の

ヒーラー性と

スピリチュアル性を認めて

発揮し、開放していくこと。

それと、

私の場合は、

自分の小悪魔性、花魁性を

認めて、開放すること。

それは同義。






恋愛も、何を経験しようと

良いも悪いもない。

ただ、自分のやったことだとすべて

まるっと引き取る覚悟で(人のせいにしない☆)

俯瞰して、冷静に、

そして、スレずに

CHO素直に生きていくこと。


そうすれば、何も怖いことなんてない。



私が恋人や、男の人と

縁がなかった、と気づいたのは

結局

すべて、自分の中の問題だった。


何をやっても、結果的にわかったのは自分が

大事にすべき価値観だったり、

自分の変化だったり

すっと、いきなり醒めてしまったようで、



後から、なぜ醒めたのか、

理由はおいおい、わかってきている。


それでいいのだ。



自分の内側の、

小悪魔性と、花魁性の開放。


そんなことしたら、恐ろしいことが待っている

私のまわりの、世界は崩壊してしまうのではないか、

と悩んでいた。

だが、そうでもないな。



たぶん、もっと、

スッと起こるべきことが起き、

軽やかに、

そして、素直に楽に生きられるんじゃないかな。と。


気づいた。




変化することを楽しむ

旅人として。


するり、この世を生きて行こうと思う。












2014年3月19日水曜日

学校教育で傷ついてる人は多い


TED 「学校教育は創造性を殺してしまっている」


大好きな動画だ。見たときに感動した。
学校教育が落としてしまうもの、に追及している。


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学校教育で傷ついている人は多い。

これは、今学校をとっくに卒業した大人でも、

今、学校にいる人でも、

あるいは、

学校で教える立場にある教師でも、だ。


************************



「仕事は高校教師です」と言うと、

よくあった反応。よくある反応。よく言われたこと
(今も②と③はある)


①学校なんて!教師なんて! 

・・・といきなり、個人的な怒りなりルサンチマン(=私的怨恨)
  をぶちまけられる。

②先生って、大変じゃないですか?

③高校生って大変じゃないですか?




うーん、大変失礼ですが、どれも意味不明っす。

以下くわしく。




①学校なんて!教師なんて! 
といきなり、個人的な怒りなりルサンチマン(=私的怨恨)
  をぶちまけられる。



教壇に立ち始めた当初。

おそらく、私自身の自信の無さや
不安が表に出ていたのが理由だろう。



いきなり、その人から攻撃されることが多くて面食らった。


「学校なんて~!」

「先生なんて~!」


・・・最初は、私が悪かったのか?

と冷静に見てたら、あまりにそういう例が多いので、

徐々にわかってきた。


その人の中にある、
「学校」のイメージが悪いだけなのだ。


自分の中の思いを、

勝手に私に投影して、投げているだけなのだ。


とわかってからは、

「相手にしなくていいね(お気の毒だけれど・・・その人個人の問題だし)」

と、99.9999%スルーして、(残りの0.0001%は、

その場から立ち去るなりその人から離れるエネルギーのために使う)

静かに線引きできるようになり、そう言われることは少なくなった。



私自身が、

「この人にとっては、学校教育なり、センセってイメージ悪そう」という嗅覚を

発達させたのもある。


・・・と、以上、モノがわかったように書いてるけれど、

この、私が仕事がセンセです → いきなり攻撃される → スルー

の対人スキルを身に着けるまで、10か月ぐらいかかった。

いちいち、言われるたびに傷ついて揺れていた。

(今だって、言われたらいい気分は全然しない。

気が下がるし、

控えめに言って、その人とはわざわざプライベートでも会いたくもない。)




しかしさ、現場でがんばってる一人の人間で、

ちょっと自信なさそうだからって、

いきなり自分の学校教育での

ネガティブな体験をぶつけるってどうなの?

失礼じゃない?












②「先生って大変じゃない?」


この質問も、意味不明。よくわからない。

この世の仕事って・・・何だって大変じゃない?

お金を稼ぐこと。

それは、それなりに苦労があるじゃろ?

なんで、「センセって・・・」と、イヤな感じのカッコ付が来るんだろう?


もちろん、どういうところに

自分はやりがいを感じるか?

ここには、淡々と毎日通えるか?

という違いはあるだろう。

でも、特に大変な仕事ではない。

かといって、もちろん、特に楽な仕事でもない。(念のため・・・)






③「高校生って(対応や教えるのが)、大変じゃない?」


と聞かれると、こう私は答えている。



「『高校生』という人間がいるんじゃなくて、

そこには一人一人の人間がいるだけです。」




そう質問する人は

自分自身が仕事上で高校生に苦労していたり、

あるいはマスコミの垂れ流す

「高校生」のイメージにとらわれてる場合が多い。






「高校生」というラベル付で、何がわかるというのだろう?

何をわかった気になっているのだろう?




単に年齢で区切られた

16~18歳の人たちをくくってまとめられるもんじゃない。

そんなの、わかるわけがない。

彼らが何を思い何を考えているのか。

そりゃ、私は年を少し食ってるかわ、わかることがあるけれど、

基本的には、わからない。

その場で生まれてくる、混乱と、

瞬間で生まれてくるものしか、わかることはない。

私は、教師は、

そこに身を、投げ入れてやってるだけ。




*****************



こういうことを書いて伝えるのは自慢ととられるので、
難しいが、書いてみる。


私は、一応県下No.1といわれる進学校の

高校出身だ。




その学校の卒業生と言うと、

県立高校教師業界では、一目置かれるのである。


(一応、私も女性なので、こういう言葉遣いは
控えた方がいいのはわかってるんですが、
それでも言わずにはいられないので言わせていただくけれど)

ほんっと、クソばかばかしい。その判断基準。

(あのさー・・・10年以上前のハナシだよ?(-_-;))



大学卒業して、仕事するのに、
人間関係むすぶのに、
学歴ってナニが関係あるのさ・・・・・?
大体、私は教えるのもへたくそだ。
教員経験もない。
それで、何が言えるんだか・・



それだけではない

その学歴にコンプレックスのある人間から

また嫉妬をぶつけられる。



しかも、教壇に立っているだけあって

トラウマが

複雑骨折してる場合が多いから

一度嫉妬されると、ねちっこく続く事も多い。




アホじゃない?







・・・と心底思って来たが、

教師だってこれなのだ。




世の中の、今生きている日本人の多くは、


日本のみならず、

学校教育を経てきた人の多くは、

こういう思い出や未消化な

学校への想いを抱えている人が多いのではないだろうか?



それは、

憧れだったり

嫉妬だったり

劣等感だったり

優越感だったりする。




そして、私自身、それらに無関係で

クリーンで、正しいのか?

と言われたら、全然そんなことはない。

まだまだ課題もぐるぐる抱えてる

思いもいっぱいだ。



たとえば、

今でも行けるものなら、アメリカのハーバード大学院の教育系専攻に

行きたいと思うし、

目の前に、ケンブリッジ卒業生で、

7か国語ぐらいつるっとしゃべります、

(って人は、本当にヨーロッパに行くとたくさん、いる)


て同い年の人間がいたら、

心中おだやかならずに、私の存在意義ってナニ?と

落ち込みまくるだろう。



それでも、こういう思いや
感情を抱えたのは
ほかならぬ自分なのだと

引き取って生きていくだろう。

それだけは確か。



**************






学校教育で苦労して、傷ついている人は多い。

だけれど、その傷をいやしたり

あるいは、また学ぼうとするのも、その人自身のことだ。



でも、私だって声を出して言いたい。


はた目から見たら、
この学歴社会で成功しているように
見える
私だって


学校教育では傷ついてきたのだ。と。


でも、傷ついたからってそれで終わりじゃないでしょ?

一回や二回ぐらい死にかけたからって、

またいろいろできるのが人間でしょ?


そんなちょっとぐらい傷ついたからって、

すべて投げるのもあきらめるのも早すぎる。

そして、学校教育ヒエラルキー、

大学教授をトップとするこのヒエラルキーは

全然別に、すごいものでもない。

強固なものでもない。

ただ、支配しやすいように作られた価値観であるだけ。



そこにいつまでも、こだわってないで・・・


明るい未来にむけて、行動していった方が、

たのしいんじゃない~?

素直になって・・・


そうしたほうが・・・心身魂ラクだよ。






そう、心底痛烈にしみじみと思う。













2014年3月16日日曜日

女性の美しさとは? に泣いた動画



久しぶりに泣きました。泣けました。この動画を見て。

東京の直感友達(アンテナが繊細で敏感なので、彼女の興味や視界に入ってくるものはチェックさせてもらっている)、けーにゃんがFBでシェアしていたので

見たら、涙が、だー!

そう、

女性は女性自身が、思っているよりも、美しい。

あなたは、あなたが思っているよりも、美しい。

私は、私が思っているよりも、美しい。

それは、うぬぼれでもなく、
自分を上に見るでもなく、
下に見るでもなく。

コーチングのまぁちゃん  が言っていたが、

自分自身の等身大の姿を鏡で見るのは、なかなかできない。と。

第三の目で、自分自身を見ること。

それは、他人も、同じくそのように見て接していくこと。

第三の目を開かせてくれるCMだなあ。

女性性。女性であること、って本来

女神であり、その女神性や、天女性や天使性が、

いろんな今までの既存の価値観で縛られたり、おしこめられたりしている。

「世間」から外れて、叩かれるから。


でも、今はもうそんなの、古いよね、と思う。

女神の解放CMだな~全世界的な。

なんて思いながら。


私自身も、なんて自分はデブなんだろう、
ブスなんだろう、醜いんだろう、服のセンスが悪いんだろう、
髪の量が多くて太い毛なんだろう、

etc.etc...

ずっと悩んできたけれど。


両親に、初めて彼氏ができたあとに、
エイズ検査に行かされた時、
下着を全部捨てさせられたとき、

自分が恋愛をするのは罪悪なんだ、
このような感情を抱いては行けないんだと
切り刻まれたように
思ったものだけれど。

自分自身が気づいて
自分自身を解放するのも
自分。




どうも、
この動画の、自分で自分の顔を伝えた絵のように
自分自身がそう思っていると、そのような人生に、そのような出会いに
そのような顔つきになってしまうのよね・・・


後の絵は、他の人の方が気づいている、その人本来の輝き。
自然の美しさ。

外からくっつける訳でもなく。
誰しもが、このような力を、女性は持っている。

「自分自身の幸せに、批判的になることは無いのね」
「私たち、女性って、自分のできないことを分析してしまうのよね」

後半部で、字幕では大味で訳されてるものの
直訳ではこう言ってます。

自分の美しさを、裁かず、ジャッジせず、
自分の本来の力を、分析せず、おしこめることなどなく。



そういう意味で
日本の女性は、
まだまだ、
どの世代も、(私も含めて)

解放、されていないと感じることが多い・・・




「自分の美しさ まだ 知らないの」と歌っていた、
宇多田ヒカルの曲 beautiful world も思い出しました。





モテ仕草、愛されメイク、駆け引き、テクニック。。。
そんなものは、より自分の自信をなくさせるだけなんだよ~~!
へたれでもブーでも女子っぽくなくても、自分である事こそ魅力だよ~♪ 頑張るな女子! 


自分をまず、どん底(と思われる)自分でもOK !って、
言わないと、それ以外は全部より自分の自信をなくすよね。


読書会友達・まりあさんの、言葉をもふと、思い出したのでした☆


自分は、思っているよりもずっと女で、

それを受け入れて生かして生きていくこと☆

それって、誰にでもできるはず。

そう信じて、私自身も、

ちょっとずつ、一歩ずつやっています♡