2015年6月15日月曜日

「まわりの人間はバカばかっかりだ!」!?



twitterでつぶやいたことを加筆してみました。

昨日NVC(非暴力コミュニケーション)の学びに行って気づいたこと。

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私の周りに、
なぜか一定周期で、

「まわりの人間はバカばかっかりだ!」

という男性が現れる。

確かにそれを言う本人はインテリだ。


が、

恩師、同世代、ついには高校生が私に語ってきて、

おいおい
なんなんだこれは(^_^;)と思ってたら、

私自身が、「周りの人間はバカばっかり」
と思ってたことに気づいた。






「周りの人間はバカばっかり」
(何も自分の頭で考えてないし、行動も変えない)

という言葉の刷り込みは、
冷静に振り返ると
幼いころから、自分の父が言っていたことだ。


なので、私は父が言っていたように
それを受け止めて聴く癖もついていた。

相手が、笑ってほしそうだ、と先読みしたら、
やたら笑って流す癖もついていた。

無意識に。

ああその言葉の奥の、言いたいことは分かりますよ。という感じで。


まあ、分かってなかったけれど
空気感は受け止めますよ
その焦燥感はなんとなく寄り添えますよ。
というニュアンスで。


そしてそういう、考えは

おそらく顔や雰囲気に出るようで
自ずとそういう考えをする人と縁があり
そのような意見表明をされてきたのだろう。





父親と言うより、父が象徴するような世代的な連綿の
表現の連鎖。

だけどさ、現代の高校生にもつながってるのだから
そんなに世代間って無いよなあ~




で、やはり

「周りの人間バカばっかり!」って物言いは
自分の腹の声としても、あまりにも
いかがなものか、と思っていた。

キツすぎるし。ね。




そして昨日NVC(非暴力コミュニケーション)の場で、
学んだのは、

自分の内側の暴力的な声、マウンティングの声は 
「ジャッカル(肉食獣の)」と呼ばれている。

そして、それは、
実は・・・

ジャッカルの着ぐるみを着たキリン、だということ。
 
キリンとは、NVCの中で、ニーズ、根底にある想いの象徴。 

つまり、「周りの人間はバカばっかりだ!」という暴力的な物言いの奥には

ある純粋な結晶の想いがある。


「まわりの人間はバカばっかりだ!」と私がいう時。


「この世をもっとよくしたい」
「もっと危機意識持てよ!」


という熱すぎる想いと愛が根底にあるな、


と気づいた。 



そして、大体、振り返れば、

「周りの人間バカばっかりだ!」と怒ってる男性たちは


いい仕事をしてたり志は高かったり、
アグレッシブに学び続けてる人たちばかりだ。


で、そこで感じる違和感として。



これからの時代、

「周りの人間バカばっかりだ!」の掛け声は

・・・言おうとしてることわかるけど、
やはり、旧体質じゃない?ってコト。



あと、自分自身を裁くから自分がきつくなるよ。と。


だから、ふっとそうやって
気づく瞬間、抜けて俯瞰する瞬間が持てれば
それでいいんだよ、とも昨日のNVC講座より。




話変わるが、

スティーブ・ジョブズは、若いころバイトで入社した会社で、

「この会社では俺が一番頭がいい、周囲の人間はバカばっかりだ!」と実際に公言
即有名&嫌われ者だったらしい。 

彼のその一見ネガティブなエネルギーの出方が
還元されてapple社となり今も私が使うiphoneやらを産みだした。



自分の中の暴力的な言葉や過激な言葉は、
実は生命エネルギーが形を変えて発露したがっているのだなあ・・・

NVC、うーん、使える・・・私にとっては。






「スーパー高校生」って大変そうだ

twitterのつぶやきよりまとめてみました☆




「スーパー高校生」という子と接する機会がある。



大人顔負けの企画力と実行力を持ち、いい視点を持っている。
あ、たしかに、私より頭いいねえ、とよく思う。

周囲に力を持つ大人を引き付ける縁もある。
それも本人のパワーだねえ。


話していればどこまでも、軽やかに思考が飛んで行けるような、
打てば響く理解の速さ
左脳がくるくると回り

十代特有の伸びと接続が早く、
刷り込みも限界設定もないから俺様・圧倒的な自信を兼ね備えつつ
脳神経細胞シナプスが有機的につながって、
成長していく音が聴こえてくるような。

はー快感。


というところに快感原則があるので、
教師職が好きなのだろうな、私。






しかし・・・冷静になるとね。
「スーパー高校生」の「スーパー」ってなんだ?
どこのスーパーマーケットっすか?(冗談です。笑) 




そして、大変そうだな、と思うのは、
周囲の20代、30代、それ以上の年齢の、

技術を持った大人が、
すでに16~17歳と言う年齢で仕事仲間として 
立ち現われてくること。 


ただでさえ、自意識過剰な年齢で、自己評価と他己評価のズレが大きい時期なのに、
それに加速してまた、そのズレが大きくなること。
自分を俯瞰してみる視点がまだまだ無いこと。


周囲の大人の立場からそれぞれ投影されること。
大人のみならず、同世代からも、
自覚的であれ、無自覚であれ、劣等感、嫉妬、エゴ、誤解、
それぞれの解釈をぶつけられる総量は大きそう。

だから成長できるとも言えるだろうが、まあ
(CHOざっくり言って、)苦労も多いだろうなぁ。


「高校生」というブランドを自分で名乗って大人の思惑に
からみとられていっているのではないか? 
わざわざ踊らされに行ってるのではないか?と。 

別に本人が悪いとも言い切れない。
それを準備してきたのは大人、私の側にもある。





今思えば、私自身の高校にも、
いわゆる「大人顔負けの能力を発揮する高校生」はたくさんいた。
数学オリンピックに出続けている同級生、
絵画においての目覚ましい活躍をする友人などなど。 

いつの時代だって、とびぬけた活動をする
10代はいる。





それに対する対処法は? 

と思うと、


イチロー(野球選手)が、名電高校時代、
甲子園が終わった時に、周囲の野球部員が負けて泣いているのに、彼だけが淡々と、
(さあ次はプロ入団だ。プロへの道のりの方が長い)と、準備していた。というエピソードが浮かぶ。

プロ野球人生の方が長い。
その後の彼の活躍、自分自身の冷徹なまでの目や自己調整の連続の日々は推して知るべし。
(「努力する天然ものは最強ですね」とはイチローを評した知り合いの言葉。)

感情に流され過ぎないで、自分の中の小さな小さな、静かな声に耳を傾けてる。

自分を俯瞰して淡々と 
違う自分カメラから見られるかどうか。
その視点を少しでも育てられるかどうか。だろうか。



私のあくまで
個人的な問題意識。


子役タレントで活躍した芸能人が思春期や
10代後半20代後半になると荒れてしまうという例も見てきているから。私は。


何も分からない子供がその当時の
全能感のままで生きて行こうとすると、、
成長して、身体的にも精神的にも社会的にも違ってしまえば、
当然おおきなズレが出てくる。

現実との乖離感がすごいだろう。
今まで通りにはいかなくなる。

ここで、メンタルサポートとしての、
ヒーリングがとっても有効な気がするんだけど。



そこから、また何を選ぶかは本人次第。

新たなチャレンジや、今までの皮や役割分担を破るための自ずと何かが必要となる。

私は、そういうスーパー(って何度も言うけどナニ?)高校生(って、単純に一般化して、くくれる存在もいない、繰り返すけど)という名前をつけてしまった
大人(って存在もいないが・・・)の責任の一端で、

言語化する説明責任義務や、水を差すような冷静な意見を言う立場。




そして、その高校生が、
ひとりの等身大の悩みや苦労を、大切にしてくれや、と思う


かわいい、その悩みや苦労は、
とてもあなたにとっては、大事なもの宝物なんだよ。と。 
周囲と圧倒的な違い(と感じるかもしれないところ)に悩んでも、怒っても。 

と。





時に自分は特別なんだ、と、特権的な意識を持つかもしれない。
(私だって32歳ながら、時々持つ。笑)

それだって、何か結果を出していくための
起爆剤になるから
罪悪感をもつところでもないし。




正直、今のコミュニケーション能力&技術を持ったまま
高校生に戻らせてあげるよ、と神様に言われても即拒否する。(笑)

今の能力のまま戻ったら、「スーパー高校生(笑)」になれるんだろうけれど(笑)
激しく傷つきまくるだろうからなあ、あの柔らかな感受性の中で。


やだよ!
あんなに不自由で周囲の大人の思惑の中にでしか
生きられない窮屈な、場所。(笑)









スーパー高校生だろうが、スーパー大学生だろうが、32才だろうが、

まだまだ何もわからないからね

大丈夫。


世界は
ずっと、ずっと、大きいからね


今いる場所は、まだ点で


狭い場所だからね



そんな自意識もエゴも


吹っ飛ばしてくれる



出会いも、人も、世界中の国や地域も 出来事も、



まだまだこれから準備されてるから。


















進学校の高校で教えてみて

twitterのつぶやきより☆




私はある程度の進学校の高校(中学時代ほぼオール5)で教えて来た。

要するに、エリート校という場所。



まず、私は、個人的には好きでした。

相当、高度な抽象的な話が通じるから。

こっちが気になる内容を、容赦なくぶっとばして話しても、
引かないで食付いてくるからやりがいあるし。
バーバルなコミュニケーションできるし。

真理とか天に接続してるー!って(個人的に)私が思う話題を
ふっても、ぶわ~っと広がるので、双方楽しい。
win-winな関係(笑)



で。



生徒が悩みが無いわけじゃない。
年相応の悩みがある。
日々迷ってる。

確かに、彼らは、
小中で義務教育の『箱』の中においては
トップクラス、



(あくまで、大人が大人の都合で、
今までの日本の歴史背景から、
準備してきた、『箱』 de あーる)

教師から大人から、可愛がられる、振る舞いができる。

うまいな、よく教師&オトナ のヒットポイントを突いているなあ、としみじみ感じた。

「先生はこういう生徒としての振る舞いが好きなんでしょ?
ほらほら~優等生で文句ないでしょ?ですよね?ですよね?」

と、メタ言語を駆使してくる。




そのメタ言語に、教師の側は、
「よしよし、OK。はい高得点あげるね。」となる。

だから、内申点=通知表がとれてきたの de あーる。


それで、


「〇〇高校(に通ってる)から、すごいよね」
「〇〇高校の生徒だから・・・」と、大人はラベル付するんだけれど、

それは、入学時点の内申点&学力ですから!しょせん。
過去よ過去。
過ぎ去った部分よ。

入学してから、勉強についていけない
勉強への意欲がわかない
メンタル問題

などなどたくさん、うなるほど見てきたさ~

そして、それらに対して
ほとんどの教師は(もちろん例外もいる!!!いるけど。)

内心、

「わからない」
「めんどくさい」
「かかわりたくない」
「対処の仕方・問題解決がわからない」

と考えている(!!)

私の場合、社会人や大人は、自分よりも圧倒的に土俵が上の人ばかりだと勘違いしていたので、
この衝撃たるや、すごいものだった。





ま、

その高校にいるということで大人がラベル付して、
ついでに、マジメな生徒はそのラベルを生きちゃうから、

孤独や悩みはある意味深い側面もある、という印象。


別に、〇〇高校にいるから

人生の苦悩に対しても
己のメンタルケアに対しても
すべて対処できるわけでは無い。

もちろん、なんとか試行錯誤していこうとする生徒もいるが、
大体わからん。




教師の中にもね、「〇〇高校の生徒だから、君たちは」って
よう、言うときあるけれど、

それ、何も内容を、言っていないじゃないか。


あとじゃな、〇〇高校で教えてる自分はスゴイ。
という思い込みも教師の側にあるのだが、

単に、〇〇高校で教えてるからって、
先生の側がすごいのじゃない~


成績優秀(という情報処理)が早いのは生徒。

生徒の方が理解が早いからね、
授業が下手でも、解説がつたなくても、
生徒の側がそそくさとまとめてくれて、
勝手に勉強してくれる側面がある。正直、楽です。

しかし、それでいいのか、と。


確かに、進学校の生徒は、どちらかといえば、経済的に豊かで、
きちんとしつけられて、敬語を使える生徒が多かった。

ご両親も高学歴で、家庭の文化として
学んだり、教師を自ずと尊敬する態度が身についていたり。


だが、それに対して

嫉妬したり、劣等感持ったりするのは、周囲、大人の側、
つまり、
自分の側であって、生徒の問題ではにゃい。


「高校生」って存在はいない、ただ一人一人の違う人間がいるだけ。ね。









だからこそ、

私も、日々、どれだけ自分がニュートラルでいられるかどうかの挑戦です。












学びは快楽♪ 


スピリチュアルでもスピリチュアルではなくても、どうでもいい、

と思うようになった

かなり大きな変化、自分の中では。


どうでもいいというか、どちらでもいいから

言葉のあいまいさと、

伝えるときにどちらが、自由で広くて

大きくなるか、ということ。


例えば入り口が、

手に取りやすい話題が、

例えや、具体例として、

恋愛でもいいし、


恋愛じゃなくても、いい

相手によって、

伝える相手によって、


その切り口が入りやすければ、そこからでいいし

そこが違うなら

入りにくいなら、違う角度から伝えることを選べばいい




どのような表現方法でもいい

言葉でも

どんな媒介手段でもいい


私がこの世でこの名前をもって

この身体をもって

どんな肩書でもいいし

どんな職業名でもいい

英語を教えてもいいし

教えなくてもいい

高校教師であってもいいし

そうではなくてもいい

ボランティアスタッフでも

有給でもいい



ただ、未来に希望や解放を、つなげられるなら

学ぶ圧倒的な喜び

神と天と真理と

一体になった忘我の歓び

無私の快楽

それを伝えられるなら

この世でどんなカタチをとってもいい









なぜだかよくわからないけれど

そんな学びのよろこびが

どこかで

この世が良くなる一端に

つながるらしいと

私はもともと知っているらしい




だから、私はどこであれ、

伝え続けたい

私が天との媒介となって

この世界中に

学びの歓びを増幅するように

気づきが、自分を自由にするという

この自在さを

圧倒的な快楽を

増幅したいんだ。


学びは快楽♪



ただ、それだけなんだ。