2014年5月13日火曜日

ブログを書くこと。文章を書くこと。





ブログを書きまくっている。とりつかれたように。

自分でもこれほどよく、
ネタも書くこともあるよなと思うのだが
ちゃんと向こうからやってきて降ってくるので

素直にそれをできる限り言葉に落としこんでいる。

そーかそーか
それほど、わたしは何か語りたいものを
黙っていたのか、

と超高速スピードで(当社比)キーボードをバチバチ打つのだが
(私はキーボードを叩く音がうるさい自覚がある。笑)
とにかく時間がない。

正直、まだ降りてくるものに対して、形をあたえていく、
スピード訓練が足りない。
文章を書くのだって、ひたすらの反復練習だ。
パタパタととにかく日々、ひとりでパソコンに向かって地道に時間をかけて
練習していくのみ。
すごく楽しいのだけれど
やっているのは、計算を早くするために
公文式のペーパードリルを大量に解いている感覚とそっくり。

ただ、違うのは、とにかくまあ、たのしいこと。(笑)
このためだったら、多少は苦労してもええかという状態であること。





CHO個人的なことを描きまくるとだんだん逆に
自分のちっぽけな自我がどうでもよくなって時々、
無我の境地に達する気がする。


ちいさいころからこれはあったが、
作文書いてるときに
「おー神が降りてきてる!」という
ようなひらめきがあるときがあって、
それは後から自分でも読み返すと、

へーおもしろいねえ。すごいねえ。(で、誰が書いたのかにゃん☆これ?)

という他人行儀になる。
ということを、内田樹せんせも書いてたので、あ、別に
自分だけがヘンじゃなかったんだ、と胸をなでおろしたのは昔。

またそれと自分が行動していくことの繰り返しで
ガンガン見えてくるもんがあるので
計算と言うものをしなくなってきた。


それから、だんだん物言いが
遠回しなのがイヤになってきて、

最後に必ず

「~と感じる」「~と思う」

とつけてたのだけれど、
もっと単純に!
シンプルに!
短文で!

短く!

伝わりやすく、わかりやすく!

とばかり考えていたら、
だんだん自分で書いたのか?これ?

というような自信にあふれつつも誰がかいたのこれ?
いや自分が書いたけれど自分が書いたのではない文章

というのがいつのまにか出来上がっていたりする。
特に、現代の世の中は便利で
ブログには自動更新機能というのがついているから

サクサクと先に更新予定のものを書いていると
あら不思議、

どんどん未来の自分と読者が読んでいるであろう
文章を想定していて
だんだんと進化・変わっていくのだ。






ボキャブラリーは貧困だし
文章は下手だし

長いし
どうしてもまわりくどくなるし
なんだか最後には
何が言いたかったのかわからなくなるし
話が飛ぶし

比喩の描写もまだまだ足りないし、

というのはよくわかっている。

のだが、それを越えて
熱量や情熱は届くもので、

きちんとそれなりにエネルギーを出し切って
人生現場を生き切ったものを
下手に小細工で脚色したり
演出せずとも

バンと出すと
アクセス数も自動的にその記事は上がるのだから
この世と人生は。おもしろい。


ブログとか他の人に見られる文章を書くときにどうしても、アタマでこうやったらきれいにまとまるとか、こうしたらいいんじゃないかとか考えちゃうんだけれど、そうするとどうも、伝わる迫力も力強さもなくなる。それに、なによりも、自分自身と、
読む人の人生現場に役立たなくなる。なんだかまるめこまれて、変化の突破口がひらかない。

という生き方になっていたので
そうなってるのだが。


そうすると不思議なもので
他の人の文章も読んでいて

「こりゃここでブレーキかけただろ」
「ここでギアを人為的にかけてるな」

というのも気づきだす。という
恐ろしい現象というか、これを自分で望んでたんだけれど
どんどん視界がクリアになってくる状態。(笑)


作家・よしもとばなな氏が
ダライ・ラマとの講演で、

小説を書くときは感情を排除します。
感情を込めると、読者が入り込む余地が無くなるので。

と言っていたのがいじみじくも思い出す。



自分のひらめきとか
核とかは、
一番最初に0.01秒ぐらいの電光石火で来るのだが
それは、すごくやわらかくて小さくて
おそらくその通りに行動したら

「なんで!!?」って混乱する人が最低10人ぐらいは
浮かぶような解答だったりするのだが

まあもうそれはいいのだ。
周囲の人生なのではなく自分の人生であって
やはり、私は

最初のひらめきの、ばっと降りてきた答えを
生きていくのを選んだのだから。




アタマで操作せずに
ハートが喜ぶような文章を書こう。

読んだ人が、違和感や嫌悪感を感じることも
これから多くなるかもしれないが

けれども、それは
もっと大きな変容とか変化とか
確実にこれからの時代に必要なものだという
確信があるから。私個人の、

自分のエゴとか意図の話じゃなくて。


それが、強烈に必要だと思う人に愛してもらえばいいし
別に違うと思ったら、違うものを選んでもらえばいい。

そう思えるようになった今の自分を、しあわせに、
ありがたくにおもうのだ。












※写真素材 free stocker様   http://free.stocker.jp/ 

(海外の写真がたくさんあります♪)






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