2014年11月14日金曜日

トリックスターの叔父 ~母方祖母に会いに行った その②~






映画「私を離さないで」 予告編
(カズオ・イシグロ原作)




「この世は実は残酷であるということを
この世の厳しさを

大人は子供に対して隠している。
そして、それがあるとき暴かれる。

その様子を描こうとした」

と、イギリスの作家カズオ・イシグロが
小説「私を離さないで」
で、書こうとした。

そんな旨を、インタビューで答えていたっけ。

それを思い出す。


****************



MY母の弟・・・・

私からすれば叔父、

のことを書こう。

幼いころから、私はこの叔父になついていた。
親戚筋で唯一、子供と真剣に遊んで向き合ってくれる人

というのが、幼心の叔父の印象。


「おじちゃん、おじちゃん、」

と言って、私は小さいころいつも、抱き着いていた。

「よしこの、ひっつき虫!」

と叔父にからかわれていたものだ。


私はいつも「特別枠」だった。

叔父からも
祖母からも、特別に可愛がられた。




結婚をせずに、冬になると毎週末長野にスキーに泊まりがけにいった叔父。
アウトドアにハマっていた趣味人の叔父。

「あの子は、山と結婚したのよ」と

母をはじめとする、彼の姉たち(私からすると叔母たち)はいつもボヤいていた。


叔父は、長男だ。

まず、四人姉妹が産まれて、最後に、待望の男の子だった。


なので、祖母は徹底的に叔父を甘やかした。
四人姉妹の四番目の女の子だった
母と、それで、いつも激しい喧嘩をしていたらしい。

叔父は男の子だからって、
いつもなんであんなに、特別なんだ!

と。


彼だけが、地元の私立中学に行き、
高校に進学し、
東京の私立の大学に入った。

そして、地元の有力銀行に、
祖母の兄が、頭取だったので、
就職した。今でいうコネ入社。


叔父は、ことごとく、
家の流れに反抗した。

姉たち4人に責められて怒られ続け
そして、祖母が甘やかしたので、

どれだけ年を重ねても
子供のようにダダをこねていた。
(今思えば)

有力なコネ入社なので

それなりにYESマンでやれば、
出世もできただろう。

だが、上司に反抗し
ずっと、ヒラ社員だった。
強烈に部下から慕われた。



そして、そのことに
誇りを持っているようだった。


庄屋の代々の家の長男に産まれて
コネ入社したものの
損得勘定ではなく、
弱い者の味方に付く。

そして、結婚をせずに、
すべてのお金は
スキーに注ぎ込む。

魚をさばくのがうまく、
大きな魚を一匹買ってきては
お刺身におろしてくれた。


小さいころ、私は彼の生き方が好きだった。
親戚筋の中では
まだ、ニュートラルな意見を持っている人。

私に絶対の味方に
付いてくれる人。



私がうつ病をわずらっていた
28ぐらいの時、

叔父と祖母が住む家に
半年ほど、いたことがある。

その時、
私は、叔父の洗濯物を干しながら
ふと考え込んでしまった。



「なぜ、叔父は結婚しなかったのだろう?」




その質問を当時、私のカウンセラー役 兼 人生のメンター役だった
恩師にしたら変えてきた答えは一言。

「そりゃ、マザコンだったから」



・・・身もふたもないな((+_+))

(恩師はその辛辣な口調で真実を突き、
笑いを取って、
人気を博してる名物教師だった)

と思ったが
確かにそうだろう。


叔父は自分の母親と住んでいて
そこで祖母は、何をしようと可愛がっていた。

同時に、4人の姉の気の強さもわかっていた。

そして、結婚しないというのは、
反抗理由にもなった。


大人になると。子供のころは圧倒的に無条件で
何も考えずに大好きで
信頼し切っていた人が。

実は、いろいろと癖も短所もある
単なる一人の人間として立ち現われてくる。


それが成長するということ。


そして、差に
私は、痛みをいつも感じていた。
それは、大人になりたくない
真に成熟したくない
自立したくはない
自立してはいけない

というジレンマだったのかもしれない。


************



叔父も年を重ねる。

50歳になり、定年を間際になって
もともとの頑固さが
さらに暴走しだした。


50半ば、冬に週末にスキーに行き、
足を骨折した。
重体で、長野の病院では手術ができず、
都会まで救急車で運び、全身麻酔。

当時、まだ私もうつ病から回復期で
些細なショックで大きく揺れていた。

おろおろと私はして
涙ぐんでいたが、

母を含む伯母一同は憤慨していた。

「いい年して、結婚もせず、
スキーで暴走して骨を折って
親戚一同に迷惑をかけて!」


その数年後に、もう一度叔父はスキーで
同じく骨折する。

病院にお見舞いに行ったら
さすがに、まずかった、という顔をしていった。

「前回は俺なんて、なんとかしてやる!
若い者には負けんぞ!
と思ってたんだけどな。
今回ばかりで、懲りたわ。
もう、スキーはやめる」


そんな素直な叔父に、私はきょとんとした。

そして、きっぱりと彼は、スキーを辞めた。


***********


叔父と母は仲が悪い。

特に私が両親ともめて、
うつ病になり、叔父と祖母の家に避難した時から
ずっと悪い


叔父は私の「側」についたということだが、
結局、それは私のことは抜きで
兄弟同士の感情的な理解に至らない喧嘩に発展していた。





私が仕事を辞めたとき
叔父に報告しろ、と母に言われて
電話したら

叔父は絶句して、ただ一言。
「今度の仕事はやめるなよ」



・・・仕事を続けるか、辞めるか。
それだけの価値でしか、
もう私を測ってくれないんだな・・・・


もう、叔父に連絡を取るのはやめよう、と思った。

親戚一同から縁が切れたと思った瞬間だ。



**************



今年の8月末。

母方祖母が高熱を出して、危うくなったことがあったらしい。
私には知らされていなくて
後から母の手紙で知った。

その手紙に、叔父が男のヒステリーを出した、とあった。


叔父や叔母が育った家(昔からの庄屋の日本家屋の家。)を
もう取り壊す。
何もかもが無くなった。と
叔父は言い放ったそうだ。


それに対して大ショックを受けた母。
祖母の見舞いにも来てほしかった。
8月は夏休みだから
(祖母にとっては、私はまだ教員と言うことになっているので
8月は夏休み = 祖母の見舞いの口実にもなると)


その、何重にもかけられたトラップを読んだだけで、
二日ぐらい落ち込んで寝込んだ。

そしてその手紙から感じたのは

「助けてほしい、救ってほしい
この場所に来てほしい」

というメッセージだ。


私が行けば。
私がこの家の人柱になれば。
カウンセラー役になれば。



叔父は私がなんやかんやでカワイイ。
幼いころから慕っていた姿が焼き付いているから。
私に対しては素直になる。

私は言われてきた、跡継ぎのいないこの家を
もらってね、と冗談交じりで。

私が犠牲になって
母の怒りや情緒不安定さを支え、
叔父のカウンセラー役になり
父の不安の材料を吸い取り、
祖母に顔を見せて


地元で、誰にも後ろ指を指されない職業(高校教師)につき
収入を得て
そして結婚すれば
地元の東海圏にいれば、


大万歳だ。





嫌だ。
はっきりと思った、

それは私の死を
意味する。


家に戻れば。
この家の流れにとりこまれる。
出口のない場所に
エネルギーの発散場所も無くて
いつも、何かやろうとするたびに、
打ち砕かれるあの密室空間に。


もう、それはやりたくない。







そして、叔父が
この母方の家の流れをまさに
文字通りに


「途絶えさせようとしている」
「ゼロ・リセットしようとしている」


と感じた。

家まで壊すのが男の人の
破壊衝動だな、と。


そこまでに呪わしく

そして退職後の叔父が
結婚しておらず、
伴侶も子供もいなくて
広い家でどのような孤独の時間を
過ごしていたかも感じた。


私が、、叔父の子供のような
存在だったことも。


それは気の毒だし大変だったと思う。

だが。

その生き方に
私を巻き込まないで。


ときっぱりと思った。
今回ばかりは。
それは確かに、哀しい。

私は、その古い日本家屋が大好きだったし、
将来、私がもしも引き継いでいたら、

そこでコミュニティや
何か人との交流ができれば、と願っていた。

だけど、優先順位は
まず自分の人生を守ることだ。と。




そして。

祖母の危篤 → 入院 → 回復劇を思った。

祖母は、これを若いころから
10数回繰り返している。


・・・繰り返しすぎじゃないか?

と内心思っていた。


祖母はもう90代だ。

今回も、その、祖母の体調悪化と
その一連の周囲の親戚のお祭り騒ぎパニックと
その沈静化の流れを見て

気付いてしまった。


「祖母は、自分で病気になって、この家族の団結力を上げている」と。


息子(叔父)のわがまま。
娘(伯母)たちの、それぞれの言い分。
祖母は、もう叱るエネルギーは無いが
病気になることができる。

病気になれば、伯母たちは団結する。
病気になると特別だ。
交代で病院に見舞いに行く。

「〇〇さんの娘さんたちはすごいね~
皆さん、お見舞いに来るね~」
と看護師さんや、お医者さん、周囲の患者さんから言われる。
つまり、
病気になることが、祖母が唯一
自分の人生でスポットライトを浴びて注目を集められること。




母もそうだ。
リウマチで、毎月〇万円の治療費をかけている母。
「痛い!痛い!」と
叫べば、私も父も優しくなると知っている。


母も父もずっと私を脅してきた。
「もしも家を出て、父と母が死んだらどうするんだ!
何かあったらどうするんだ!」

それにずっと怯えて生きてきた。

病気、死、不安、恐怖。
それを脅迫材料に
家族をまとめようとする。


自作自演・・・








そんな流れの一連を汲んできた私だ。


実家にいたときに
しょっちゅう病気になって寝込んでいた自分を振り返る。



そして、それを思うと。
そんな風景の一連が遠くから見えたとき。






もう、この家の流れは私で
変えよう

終わりにしよう。

と、決めたのだ。






希望と愛をベースに

ワクワクと楽しみを
「なんか」の直感と光に向かって歩いていこうと。





それは、
私が生きれば
私が今ここで変われば、



過去の時間軸が変わること。
今あるこの家の流れが

そして未来の時間軸が変わる。




研究者として、そして未婚で若くして
おそらく研究の化学薬品の毒性のせいで、亡くなった
祖母の姉の無念さを思う。


今も老人介護施設で、
生きているのか死んでいるのかわからないような
じっと虚空を見つめている祖母を思う。


いつまでも一緒に
ダラダラいることだけが
愛じゃない。



今、ここで私が
光に向かって歩くこと。

それを選ぼう、と☆

























































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