2014年11月11日火曜日

約半年ぶりに母方祖母に会って その①



10月31日~11月7日まで
私は、仕事の休みを取った。

11月1日、京都でのイベントで
産まれて初めて、出店者側、
となり、友人とコラボして占星術を
出店すると決めていた。


そして、同時に私の出身地元・名古屋にも
帰ろうと思っていた。

私は、離島で働いている。
同僚たちが、1週間程度まとめて休みをとって、
実家に帰省する姿を見てきた。



が、その時に必ずココロに、
のしかかる問題は、


実家に帰るかどうか?
両親と顔を会わせるかどうか?

これだった。


同僚が、素直な気持ちで、

「実家に帰りたい~!」
「実家に帰ると、もう、職場(この島)に戻りたくないよね・・・」

と仕事合間につぶやくとき。
それは、他愛のない会話だけれど私のココロを少しずつ重くした。

いろんな人が家に帰りたがる。
帰っていける家があるのに
私は、自分の家に、帰ることで安心することはできない・・・

名古屋に大切な友達が、たくさんいる。
SNSでも、LINEでもメールでも携帯でも、
よく連絡は取り合っている。


名古屋に戻ったら、寄りたい場所を
私はメモに書いてみた。


・母方の祖母に会いに行く
・父方祖父母のお墓参り
・伊勢神宮
・熱田神宮
・母方祖父のお墓詣り
・starbow


・・・・これだけだった。笑えるぐらいシンプル。


会いたい人には、
連絡をとった。
名古屋に帰るときに実家に泊まるかどうかで
また自分の中で葛藤があった。

考えてみれば、
1週間、完全に一人旅で
ここまで自分の動きを自分で計画して
プロデュースしたのは初めてだった。

最初は、友達の家に泊まるお願いメールを
出すために、3週間ぐらい悩んだ。
「こんなこと、お願いしていいのだろうか?」と。




そして、結果的に実家には、
泊まらないことにした。
電話とメールだけで、
両親との関係に疲れているのに
一泊も過ごしたらどれだけボディブローを受けるかわからない。
その回復にかかるエネルギーと時間を考えて
やっぱりやめた。



京都では、友達の家に3泊。

名古屋では、友人の家に、1泊ずつ。
2泊3日の弾丸帰省だ。

そして、名古屋最終日の午後、


まったりと午前を一緒にすごした、まりあさん
と、まりあさんの職場にお邪魔しようかと、
名古屋駅の裏を歩いていたとき

口を切った。

私「祖母に会いに行こうとおもうんです・・・」




母方の祖母。
母の母。

意識もはっきりしているが
手足が動かないので、老人介護施設に入っている。

三重県の、名古屋から電車で1時間半、そこから徒歩でまた30分ほど。

とても時間がかかる。
正直、かなり覚悟しないと、行けない。

高速バスは、5時半発。
時間的にはギリギリだ。

でも、、あっておいた方がいい、と直感が告げていた。
この午後のフリーの時間を
実家に寄ろうかとも考えていたが、
優先順位は、 祖母>>>実家となった。


電車に乗って、向かう。
色々と考える。


祖母のことを、母は大好きだ、と今は言う。
だが、同時にとても厳しかった、と。

私が、母に苦労して、
叔父(母の弟)に、どのように対応されたか
どんな言葉を言われたか、話したら、
叔父はポツリと言った。


「それは、俺たちのお母さん(私からしたら祖母)からされたことと全く同じだ」と。



松阪の、地元の電力会社の社長の娘に産まれた祖母。
お手伝いさんもいた、お金持ちのお嬢様。

祖母の姉は、戦前の時代には珍しく、、
御茶の水女子大学に進学した。

その姉が、大学に進学したいと言ったとき、

祖母の父(わたしからすると、曾祖父・ひいおじいちゃん)は、
怒り狂ったという。

「女が、大学に行くなんて! 学問するなんて!」

だから、祖母と、母(私からの曾祖母)は、
こっそりと、彼女を、御茶ノ水に出発する電車に載せたという。

そういう時代だ。
女性が学問をして、四大に行くのは許しがたいことだった。


彼女は、大学に残り、学者となった。
先進的な人だ。専門分野は化学。
周囲の研究者は男性ばかり。
徹底的な嫌がらせを受けたそうだ。


残された祖母は、成績も良かったが、学問の道には進まなかった。
嫁入り修行学校に行き、家のために、自分の父のために、いた。

祖母は、父にかわいがられ、
そして、三重県の、これまた代々庄屋の家に嫁いだ。
トラック数台分の嫁入り道具と、
婚礼が、確か、1週間ほど続いた、と聞く。



母方祖母も、家のために
自分を殺してきた人だった。
そして、その代わり、
身分のある結婚をした。

・・・とも言える・・・・



祖母は、5人の子供(4人の娘と、1人の息子)を育てるとき、
その、研究者となった、姉から言われたことを忠実に守った。

「女の子はお嬢さんに育てなさい。短大に行かせなさい

仕事なんて、大学なんて、ゆくものじゃない。

男にこれほど、仕打ちをうけるんだから」


見事のその通りになった。

母を含む、4人の姉妹は、
地元の一番の進学校の高校に通い、
愛知県のこれまた、伝統的なお嬢様女子短大に全員進学した。


女性は、まだ短大で、いい、という時代だ。


母の上の、3人の姉は、
次々と就職したり、結婚した。


母は、短大卒業後、苦労して教員免許をとり、
そして、小学校の教員となった。
その後、塾を知人と開き、繁盛した。

30代半ばまで、母だけが、実家に暮らしていた。
母の母、祖母のために。

そして、お見合いで結婚した、
それが父だ。
結婚を決める際も、確かに
祖母の意見が重視された。

父は、同期で出世頭で役付きだった。
時代的にもときめく、会社だ。
はたからみたら、ある程度の
身分がある結婚だ。

母は、ことあるごとに私にいった。

「結婚したら、仕事をやめろ!って父が怖かったんだもん!」
「父は結婚前はあんなにやさしかったのに! 結婚してから全然変わった」


・・・代々続く、根深い男性不信。


私は思う。

母を含む、姉妹は、
今の世の中だったら、四大に進学していただろう。と。
そして、バリバリと、働いていただろう、と。


母には働いていてほしかった。
それが、ずっと私の願いだった。

小学校教員だった時は、
他の先生が、母の授業を見に来たというぐらいに、授業のうまかった母。
塾を友達とやっていた(今でいえば、起業だ)時の繁盛ぶり。
今でも、教え子と交流のある母。
それほどまでエネルギーに溢れていたのに、

「専業主婦として」
「結婚したら家に入るものだ」という
考えに、しっかり乗ってしまったから。
その不満は、すべて父と私にぶちまけられた。

いや、私に。

幼いころは
母は、怖くて父に何も言えなかったのだ。


日本の戦後、
高度経済成長、
マテリアルの豊かさを支えた、
企業戦士とその専業主婦。

父親の不在。
その母親の孤独と母子密着・・・

外から見たら完璧な
物質的にめぐまれた
家族。


そんな風に今なら
遠くから思えるけれど。




******************

祖母の介護施設に入る。

が、部屋の番号がわからない。

8月末に、熱を出して危篤になり、
一度専門の病院に入院したらしいので、
受付で尋ねる。

「あの・・孫なんですけれど、〇〇〇〇の部屋は何階でしょうか?」


聞きながら、悲しいなあ、と思う
孫なのに、祖母の部屋番号を知らない。

母には聞けない。
聞いたら、そこから芋づる式に、また
会いに来い攻撃が始まってしまう。

親戚には聞けない。
「なんで、教師を辞めたんだ!」という
呆れと怒りの言葉しか来なかったから。


教えてもらった階に上がり、
またそこの受付スタッフに聞く。


「すいません、個人情報なので教えられないんです。部屋番号は。
それぞれの部屋に名前が出てますので、それで探してください」



・・・・・むっとする。
名前が出てるなら、部屋番号を教えてくれてもいいじゃない。
個人情報というなら、私が祖母の孫だということを
証明すればいいの?

個人情報っていう使い方が間違ってない?


だが、通常は
親戚の人が来たら、あらかじめ部屋番号がわかっているよな、と思い当たる。

こういところが、いちいち悲しい。
べったりと密着型の家族。親族。でも
どこかにいつも怒りがうずまいているこの家族の流れの中で。


仕方ないので、ぐるぐる回って祖母の部屋を探す。
表札を見つけて部屋を開けたら、
空だった。昼間は、一階で、デイケアの日だ。


拍子抜けして、深呼吸。
祖母の介護施設からは、母の姉妹兄弟全員が通っていた、
いわゆる、三重県でno.1の進学校高校が見える。

なんだか、マンガみたいなこの家。



*****************

祖母は、デイケアの場所で車椅子に座っていた。
スタッフさんに声をかける。

スタッフさんの方が、家族よりも
祖母がどこにいて、何をしているのかを、知っているのだ。

スタッフさん「 ようこそ、ありがとうございます」


・・・それは、この介護施設に。
ようこそ、という意味?

ありがとうざいます、というのは、祖母に会いに来てくれて
ありがとう、という意味?


なんだか、言語がわからなくなる。

仕方ないんだけれど、
ゆるい自己啓発グループにでも来た気分になる。
独特の雰囲気・・・・




本来は、家族が一緒に過ごせていて、
祖母がずっと過ごしていた家で
祖母を見られたらどれほどいいだろう。

その葛藤の中で、母の姉妹もいた。

母の混乱っぷりはすごかった。
ただ、困るのがパニックになって

その不安を周囲に巻き散らすばかりで
何も具体的には行動できないところだ。


「おばあちゃんが、かわいそう。なんとかしたい」

と、電話で泣きついたり、
私にいったり。

・・・・・わかるんだけれど、
それじゃあ、怖い怖いと
泣き散らしている小さい子供と同じじゃないか・・・


祖母は、ぼんやりとして、車いすで、そこにいた。


「よしこだよ~」

と言っても、目の焦点が定まらない。

以前は、孫の私がいるだけで、
ぱちっとハッキリしたのになあ・・・

哀しくなりながら、祖母の手をにぎる。
もう、握力の無い、つるつるの手。



祖母は、介護施設のゲームや、
職員の人のアクティビティーに加わわらない。
お嬢様の矜持がある。

だから、自分の中にじっと沈み込んでいる。


祖母が突然たずねる。

「よしこちゃん、どこにいるの?今」
「(仕事は)何してるの?」



・・・・全部知っているな。と瞬時に気づく。

母は、祖母に対して、
娘の私が何をしているのか
絶対に言わない、言えない、と言い続けてきた

手紙で。メールで。

母が私が仕事を辞めたとき、絶叫したのは、
まず、周囲に言えない!ということだ。

「こんなこと、おばあちゃんに言えない! 
おじさん(母の弟)に言えない! 
おばさん(母の姉)に言えない!」



母にとっては家族が神様。

あーこのパターンは変わっていないな・・・・と思う、

高校時代。
大学時代。


「こんなことは、おばあちゃんに言えない!」


が、母の決まり文句だった。




それでよかったのだ。
母の時代までは。

周囲の人を、世間様を
まず考えることで

身分の保証があった、
食べていけた、
ある程度楽しかった。
そういう時代だった。






私「 愛知県にいるよ~ まだ先生を続けているよ~」


・・・もう、これは決めたことだった。

今回は、祖母に、
優しいウソをつこう、それで押し通そうと決めていた。
ここで、初めて私が事実を告げて、
この前後関係から、
また祖母の体調が悪くなるのは困る。








祖母「ふ~ん・・・」


黙り込む祖母、その顔に

「ほんとかよ?」
「私に本当のことを言わないなんて」という不満が書かれている。

(沖縄にいる間に、
相手の表情に何が書かれているか、
言葉になってない部分にますます敏感になっていた)


私は黙るしかない。
おそらく、他の親戚からも聞いているだろう。
仕方がない。


祖母と一緒にいても、
実はそれほど話すことは無い。
祖母が元気だったころも、話題に困っていた。

母は、祖母に会うたびに、なんでも
機関銃のように話していた。

だが、私は特に話したいことも、ない。
10分でも押し黙って一緒にいると居心地も悪い。


だけど、遠く沖縄から飛んできたのだし
万が一
これが最後の別れになる可能性も高い。

だから、大事なことを話しておこうと思った。


私「(私の)母は、おばあちゃんが大好きですよ」

両手を握って、目を見ながら話したら、祖母が言った。



「○○(祖母の地元の家)のこと覚えてる?」



それを聞いた瞬間に泣いてしまった。
一気に押し寄せてきて。


ああ。祖母は家に帰りたいんだな。
私が、その家のことを忘れたと思ってるんだな。
まず、家のことを考えるのって、
昔ながらだなあ。

忘れてほしくないんだなあ。

涙が止まらなくて、
持ってきた白いタオルでふいたら
マスカラとアイシャドーが落ちて付いた。
それでも、泣いていた。

祖母に泣いてる顔をみられたくなくて、
後ろを向いて、泣いて、

また、なんとか泣き止んで
祖母の顔をみたら、

「孫を心配するおばあちゃん」の顔になって、
シャキッと最初に会った時よりは、していた。



・・・・まったくなあ~(苦笑)









次回につづく☆





























































































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