2014年2月6日木曜日

母の呪い 家の呪い ②


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母の呪い 家の呪い ① 
 http://red-roses-and-butterflies.blogspot.jp/2014/02/blog-post_2686.html 

舞台裏編  http://red-roses-and-butterflies.blogspot.jp/2014/02/blog-post_3933.html

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↑まず、舞台裏編を読んでね❤






PTSD、フラッシュバック、うつ病、そして母と娘の確執、
性的な内容、が具体的に描かれていますので
苦手な方、またまだその症状がある方はお気を付けください。

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私の高校時代は、地獄。

その一言に尽きる。
県下一番の進学校に入ったものの、成績は急転落。無気力、すべての授業中は寝る。

・・・そこまではよくある高校生だ。

だが、それを両親は許さなかった。毎日毎日、両親から罵詈雑言が飛ぶ。

「勉強しろ、努力しろ、そんなのでは行く先はホームレスだ。」

そして、その後で必ず付け加えられた。

「こうやって、親から言われていることは、外では絶対に話すな」

私は何も、しゃべれなくなった。言葉が出なくなり、友達はいなかった。
保健室でひたすら寝るようになった。
本を読んでいるか、絵を描いているか。涙は止まらない。
勉強できるような状態ではない。

高校の同級生が、行かないような大学に進学した時
一番心がけたのは、
高校時代のことは、話さないこと。悟られないこと。だった。




大学3年生の時。
めでたく彼氏が私にできた。


まあ年頃だ。彼氏はアパートに住んでいたから、よく遊びに行っては泊まった。

しかし、両親は私が
男の1人暮らしの部屋に行っていたことを知り、文字通り「発狂」した。

その対応は、時代錯誤のものだった。



・父は丸坊主になり、「○○○(←私の名前)が化け物になった!」と叫んだ。
・エイズ検査に行かされた。
・持っていた下着はすべて捨てさせられた。
・代わりに、黒・肌色の下着を買わされた。
・部屋に貼ってあったポスター(当時の、演劇のロミオとジュリエット、藤原達也と鈴木杏のもの)
  は処分させられた。理由は、私と彼氏を思い出すから。
・赤とピンクのマニキュアはすべて処分。


母は絶叫した。
「こんなこと・・・誰にも言えない!親戚にも、おばあちゃんにも!誰にも!」


(まあ、今思うと、
別に言わなくていいんじゃない?0.1秒で即却下。ですが、
そのころはそんな切り替えはできなかった。)



両親によって、犯された、と感じた。


毎日人のいないところで泣いた。
彼氏の前でも泣き続けた。

困った彼氏は言った。
「泣かないでよ。困るから」

・・・これほど、男が役に立たないのか、と思い知った経験はない。
まあ今考えれば、21歳ぐらいの大学生に何ができるだろう。
多くが、まだまだ大人にそそのかされて生きている年齢だ。





毎日、誰にも言えずに暗くて重い闇を歩くような日々。

しかし、私にはその時、アメリカ留学が決まっていた。

誰にも相談することもできずやり過ごした。必死で。

そして、私はアメリカに留学する前に、彼氏と別れる。

だが、アメリカに出発する前日(飛行機で飛び立つ前)、
母は夜を徹して、私の布団の横でささやき続けた
(マジで、実話です)

「お願いだから・・・もう、あんなことをやめて」

まあ私がハゲたり発狂したり
グレなかったのが奇跡だ。




だが、このソーゼツすぎる記憶は、すっぽりと忘れてしまった。
アメリカの留学から日本に帰って来た時には。

人間、あまりに常軌を逸した経験は
忘れてしまう機能があるそうだ。

そして、ふっとその記憶がよみがえるときがある。
前ぶれなく、心身を串刺ししてくる、「フラッシュバック」という名で。




大学も卒業し、めでたく大手企業に総合職として入った一年目の冬。

類は友を呼ぶもの。


大学時代のバイトの塾での教え子が、
リストカットをしたと、SNSの日記で書き込みをしていた。

私は色を失う。
数日前、その生徒から相談するメールをもらっていたからだ。



「進路で悩んでいる。先生も、色々思うところがあるようですが、
一体、どうやって対応すればいいのでしょうか。」


私なりに、幼い22歳なりに
自分の感情処理と表現方法には工夫をこらしてきた。

「自分の状況を俯瞰して、できるだけ他人を見るように自分の気持ちを把握する。
そういう冷静さが大人、って言うんじゃないかな。」

そんなことをメールした矢先だった。



あわてて生徒を近くのファミレスに呼び出し、
仕事後、話を聞く。
涙をただ、重力にまかせて落とる生徒に、
私は神経を研ぎ澄ませた。
生徒は高校生だ。

自分自身の、今までの記憶も同時によみがえる。


勉強どころか、ずっと授業中に眠っていた、友達もいなかった高校時代。
当時通っていたメンタルクリニック。
必死で、友達や学生生活を取り戻した、大学時代。。



季節は2月。一番寒い時期だった。
冬も、うつ病が発症しやすい時期だ。


そんなこんなで、あまりにプライベートでも、
その生徒の心配が私の気持ちを占めていた。仕事も、その後も、
疲れ果てていた私は、気分転換に髪を切って、久しぶりにほんのりと、茶色に染めた。

家に帰って玄関を開けた私に、
母は言い放った。

「気持ち悪い!」

私は虚をつかれて、泣いた。

母は続ける。

「泣かないでよ、ご近所にどう言われるか。

以前も、○○の時も、××の時も、言われたのよ。お宅の○○ちゃん(←私の名前)が泣いてたね、って」

目の前で泣いてる娘の心配よりも、近所の目の心配かよ。である。




そこからフラッシュバックである。
大学時代の
彼氏との別れた時の、記憶がよみがえった。

会社に出られなくなった。
胸が痛い。頭が痛い。




それでも無理やり会社に行く。
仕事が進まない。ずっとPC画面を見ているだけで何もはかどらない。
ひたすらだるい。
物をあちこちに忘れてくる。
家の鍵を、喫茶店に忘れる。

休もうと、トイレに行って、その目の前の扉に、
自分の首を吊る縄が見えて、自分がその首を吊る絵が浮かんだ瞬間

私は覚悟した。


「精神科に行こう。もう、働けない。私の命があぶない」



ただ、その当時から私は書くことで自分を保っていた。
同時並行して、2人ぐらいの友達に、自分の状況をメールする。
彼女らからの反応と返信から、
なんとかギリギリの状況を保っていた。




数年ぶりに精神科の扉をたたく。
昔、母が激昂して、診察券を真っ二つに切り裂いた精神科だ。

子供から大人まで、多くの患者を抱えている。
高校の保健室の先生にすすめられた
評判のいい場所だった。

しかし、今の時代、精神科はどこも満員御礼。
ましてや、評判がいいなら、なおさら。

そして、ドクターの診察前にカウンセラーによるカウンセリングを受けなければならない。
予約して、ねじこませてもらって、そしてまた数時間待って。
針のむしろの中で順番を待つ。
欲しいのは休職届、医者の、休職診断書。

それだけなのに、
これほど時間をかけなきゃいけないなんて。

白衣を来て、ゆったりとした椅子に座る
久しぶりの、O先生に、たどり着いたとき、
もう細い一本の線の上をたどっている状態だった。


一気に自分の状態を話す。





O先生「どうして、この状態になったか、わかる?」

私「両親が・・・私が彼氏ができたときに、エイズ検査に行かされて。

それでです。」

O先生「そりゃ、そうだよなあ。彼氏ができただけで、エイズ検査に行かされちゃあ、
たまったもんじゃないよなあ」

泣き笑いしていた。

ああ、よかった。私の方が間違っていたんじゃないんだ。

O先生が続ける。

「・・・(少し黙る)それだけ言葉で言えるなら。薬は出さなくてもいいね」




今でも、O先生がうつ病の薬を出さなかったのは、
良かったのか、悪かったのかわからない。


その後、私は心身症の、頭痛と胸の痛み、だるさに
長い間、苦しむことになる。

だが同時に、うつ病の薬を飲むことで、
起こってくる身体症状や状況に
気を遣わなくてもよかったから。


あのころの自分は、
毎日すべての全財産を持って歩いていた。
通帳。ハンコ。
いざとなったら、すぐに逃げだせるように。
帰る場所は自宅だった。
両親が住む場所。

多くの友達からの申し出もあった。
「家に来ればいいよ」と。


でも、なんとか私は自分の範囲内で解決したかった。
あと、他人の家にいて、自分がまた
おのれのペースを守れないのも怖かった。


親戚の家にも避難させて欲しい、と電話したことがある。
親戚は電話口で怒鳴った。

「あんたの、家のお母さんは怖い!
高校時代、どれだけ怒られたことか。
○○○(←私の名前)を、勝手に吹き込まないで!と。」

(高校時代に、あまりに親の暴言に耐えられなくて、
 勝手にその家に家出したことがあった)


なんで、死にかけてるような人間を、怒鳴るんだ。
と、怒る元気もなかった。
そんな怒声を聞いても、心臓は痛くなるだけだ。



重い相談、非日常的な相談をした時こそ、
その人が出る。


というのは、そこから学んだ。

結局、相手が揺れる。


そして、プロのカウンセラーやセラピストは
それを避けるため、
ニュートラルであるため、
研鑽を積んでいる。



別に、その親戚を今、恨んでいるわけでもない。
だが。
幼いころから可愛がってくれただけに、控えめに言って、
ショックだった。
確かに、あの時、私の命は危なかったのだから。



そのころからの癖かもしれない。

手元に、大切なものを持ち歩いていないと
落ち着かない。
あるいは、お守りがたくさんないと不安。


帰るべき家は安全な場所ではなくて、
私はいつも逃げ続けなければならない。
そういう思いが、巣食っていたのだろう。





久しぶりの診察の帰り際、O先生は静かに、言った。



「よく、来てくれました」


「ほんとうに、よく、来てくれました」



ここから、O先生との、二人三脚で私の

奇妙な数年間が始まる。




ポール・クレー の天使
O先生の診察の机に入っていたもの。
まさに、Oセンセイの、私の話を聴く姿勢そのものでした。



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※あくまで、私個人のうつ病、フラッシュバック体験、その治療過程です。
 




(つづく)





















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