2015年5月25日月曜日

自分を知ってゆく毎日


高校生と話しても、結局あぶりだされるのは自分ね。


ギリギリの揺れ続ける10代後半期にいて、
生の言葉を発する彼らと接するのは、こちらが板の上に乗って、
試され続ける連続だから。


結局、腹割って素に引き戻される連続。

おお、このように私は、武装しようとしていたのか、と気づかされる。




思春期とは、年中、女性で言うなら生理状態の精神状態だそです。

なるほどにゃ・・・


あの、アップダウンの激しさ、
赤ちゃん期から、突然老成した言葉への突如の跳躍、

子供のエゴと、はしゃぎっぷりと、
論理的思考、抽象的思考が巡って、突然飛躍的な結果が出てきたと思えば、
小さな枠と経験の中で沈む、

時間が即遮断されて次に次に行く感じ。
喜怒哀楽が、短時間に詰め込まれていて、
何度でも一日に感覚は、更新されていく。

いっぱい、いっぱいな感じ。



わたし、神様に頼まれても、思春期なんざ戻りたくない(笑)

この経験&視野のまま戻してくれると言っても、そりゃ、違うやろーと思う。


過去になんて戻りたくない、
今がいつだって一番vividに面白い。



子供、中学生、高校生に接すると、

この自分の価値観や重きを置く場所 
知識。技術、年を重ねて身にまとったもの、経験、視野。
自分の中に溜まってた澱や勝手に決めてた限界を、見せられる。




「高校生」ってラベル付できる存在は居ない。
ひとりひとりの違う人間がいるだけ。


何やっても、どこに行っても、
わかるのは自分。


・・・・と考えるし、解釈するようにしてる。
そうすると、自分が変わることができるので。





自分が学生の頃
何もなしていないとき(働けない心身状態だったとき)
自分の資質と考えていることに尊敬を持って
心底感嘆して、接してくれたオトナがいた。


その逆照射を手掛かりに、
自分自身の輪郭を手さぐりで探っていった感じ。


尊敬を持って接すると尊敬が帰ってくる。
どんな年齢でも。


同時に、それ、・・・ちゃうやろ?

て部分を言語化して説明責任は、
オトナ(に、いつのまにかなってしまった)
私の側に、あると、感じるし☆


大人になって、あらら

と思ったこと。


オトナってのは、子供と勝負しないものだと思ってた。

全然、別の土俵にいて、歯牙にもかけない存在(笑)というか
圧倒的に神のような存在で、
すべてをわかっていて、何かやらされていることの背後には
想いもつかない、配慮があると思ってた。


・・・全然ちゃうやん!

高校生相手・生徒に本気で、ムキになるし、
感情的になるし、劣等感持つ
めちゃくちゃ、短所だらけの不完全な人間・・・・


教師時代も、

バッシバッシとジャッジに切っていく自分を含めた周囲に
なあ~んだ、こんなに、ある意味、子供っぽい存在だったのかああ~

なあ~んだ、こんなに、センセたちって・・・

何もわかってなかったのかあ~


そんな顔色一生懸命伺ってたのかあ・・・・


・・・と肩の力が抜けた。


ま、そこからが、すべての始まりね。




何かしら突き抜けた人は、肩書など関係なく、

子供っぽい存在の愛すべき大人たちは、
グチやエゴを超えた部分での
「なにか」を持っているし。





ひとりの人間の中に、
いろんな年齢の存在がいる。

それを本人が、押し殺してると、
どっかからそれが見え隠れする。


強い部分、弱い部分、柔らかい部分。
神性を感じるような無私のスピリット、
愛、優しさ、時に、
エゴイスト、まがまがしいまでの暴力性、残酷性、

それが、、全部ふくまれて、
ひとりの人間なんだなあ。


そうやって、
お母さんのお腹から産まれてきたんだよね。
全部持って。

今までキレイな部分だけが
愛だと思ってたけれど

ドロドロした(と自分では思ってた部分)含めて愛だし自分だな。
そして、それは人もそうだなあ。



男らしい部分、女らしい部分、性を超越した部分。

40歳でも、50歳でも、70歳でも、
繊細なその人が顔を出す。




それは、小学生・中学生・高校生でも変わらない。
「気を使い過ぎる」子供たちを見ていると
分かっているんだなあ、と感じる。

結局、「問題がある」と感じてるのは、私で、
私の側の問題なのだ。


道行く0歳や、乳幼児ににっこりと目を合わせると
その奥の大人びた顔と質に、ハッとする。
「この子、私よりも分かってるんじゃにゃい?」



このところ、自分自身の高校時代イメージがガラガラと変わった。
要するに、イメージの誇大化してた部分が、
等身大に戻ってきたわけで。

もう高校の同級生に会えるなあ。
高校時代の同級生って、超☆怖かったのだ。
高学歴集団(笑)ということで、私の中の劣等感が噴出しそうで。
バシバシ「自信ありますオーラ」は恐怖だったっけ。

投影していた影が戻ってきた。
怯えてたのは結局自分の影で。

自分をそこに見ていたわけで。
押し殺していたものが、声を上げた、「私をみて!認めて!」って。


私が教壇に立ってて授業してて面白かったのは
「自分がわかる」ということだったのかもしれない。

どういうときに(私が)キョドルか。
どういうときに、どう反応が起こるのか。
体反応に応えるから、こちらの気合と機嫌は感染する。



高校生を高校生とか、私が教師とか、
枠に入れずに、

自分が天と直結していると直感的に感じた言葉を
降ろして伝えていくとき、ビビビと来たなあ。


結局、予備校講師を見てても、現場の人たちでも、
天と地をつなぐ存在だな、と感じる。

表にわざわざ出さないけれど、すごく直感的にわかってて
それを、「教育」や「先生」の枠組みに向かって翻訳に翻訳を重ねてく。





「学生」「先生」の

「大人」「子供」役割演技はあるけれど、
その役割が外れた瞬間が産まれると
バッと面白い化学現象が起こるしね・・・。










・・・うーん、我ながら、治癒の過程♪ (笑)



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